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人は​菩薩や​キリストに​なれない

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子どもを授かってからどう育てるかなんて誰もが経験し得ないことで義務教育でも教えてくれない。親になるどころか家庭を持つ若者も減っていて、頼れる地域共同体なんて遠い幻想になった昨今、すべてを自己完結するしかなくなった中で完璧な子育てなんかできるわけないだろうなと思ってる。だから育児に関する負の感情が家庭の中でうごめく。

山に置き去りの件は(そもそもしつけじゃなかったけど)普通にありえんなとは思うけど、置き去りにすることはないにしても、自分の子どもに大してやること成すこと菩薩のように許してキリストのように愛せる親はどれだけいるか、まず居ないと思う。

僕がもっとも毛嫌いする「子どものすべてを愛す」とかいう理想論であり根性論のやり方は、完全に「正しい育児」というものへの幻想そのものであり、童貞がまだ見ぬ彼女に望むエトセトラのように机上の空論である。だから子どもへの怒りとか嫌気とかは出てきて当然だし、人間である以上抑えこむことはできないと思うべき。

じゃあそれを子どもにぶつけていいのか、ということにはならない。僕ら自身は娘に大して良い意味で期待はしていない。それは「静かに寝ていたり」だとか「モノを壊さない」とか「危ないことをしない」ということへの希望を捨てているということ。何をどうするかなんて分からないし予測なんかできない(幼児は特に)。だからこそ期待はしないようにしている(それでも嫌気指すときはあるけど)。

我々は人間である以上、過ちは犯すし失態は繰り返す。そしていつ自分がそれをやらかすかなんて分からない。それと同じようにすべてが順当にいくかどうかも分からない。人生そういうもんだと思ってるけどそれが不幸かなんてことも同じようにわからないものである。

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